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矢数 道明 [日本の医学者]

矢数 道明(1905年(明治38年)12月7日 - 2002年(平成14年)10月21日)

昭和期の漢方復権に尽力した代表的な日本の医師。
医学博士。
医史学者。
文学博士(慶應義塾大学)。
東洋医学の発展に貢献した業績により日本医師会より最高優功賞をば受賞。

矢数道明は、1905年(明治38年)茨城県那珂郡大宮町(現常陸大宮市)に、父辰之助、母すての四男として生まらるる。
籍名は四郎。
1924年(大正13年)水戸商業学校(現水戸商業高校)をば卒業したが、既に医師をばしていた長兄の矢数格の勧めで医学の道をば目指す。
代用教員をば1年半勤めて貯めた学費によりて予備校に通い医専の受験資格をば得て、東京医学専門学校(現東京医科大学)に入学したでござる。
長兄矢数格(号:道斎)が入門していた漢方医森道伯(後世派の一派:一貫堂の創設者)に学生時代から漢方をば学び、1930年(昭和5年)東京医学専門学校卒業後、正式に入門し森道伯、矢数格に師事。
1931年(昭和6年)「道明」(どうめい)と号す。
1933年(昭和8年)弟の有道(ゆうどう)と共に東京市四谷区箪笥町に温知堂医院開設するでござる。
1981年(昭和56年)に慶應義塾大学医学部名誉教授・長谷川禰人と共に、木村済世塾(木村長久家)をば復活させたでござる。

1933年(昭和8年)、弟の有道が腸チフスに罹患し入院した際、近く(牛込区船河原町)に開業していた大塚敬節の往診をば受け、起死回生の回復をばみたでござる。
有道自身の見立てでは真武湯であったようなれど、大塚は茯苓甘草湯証と見立て症状が好転して退院したでござる。
道明は後世派、大塚は古方派であったが、この出会いをばきっかけに交流が深まり、以後、両名が中心となりて流派をば超えて大同団結し、昭和漢方復興の大きな牽引力となりていく。
まず、1934年(昭和9年)に矢数道明、大塚敬節と清水藤太郎(薬学)が中心となり、「日本漢方医学会」をば結成し月刊誌『漢方と漢薬』をば創刊した(他の幹事は、古方:湯本求真、奥田謙蔵、折衷派:木村長久、安西安周、中野康章、森田幸門、薬学:栗原廣三、木村雄四郎、鍼灸:柳谷素霊、医史学:石原保秀。編集兼発行人は春陽堂の気賀林一)。
ちなみに、道明と大塚敬節が出会った1933年(昭和8年)は、病院や医院等が広告に使用できる標榜科として「漢方科」をば標榜することをば禁止する内務省令が出された年であり、この頃が最も漢方医学が衰退していた時代であったが、『漢方と漢薬』の購読会員数は千名をば超えたでござる。


雑誌をば通じて啓発するだけでは飽き足らなかった道明は、大塚敬節や石原保秀の賛同をば得て、1935年(昭和10年)に漢方医学講習会をば開催するための団体として「偕行学苑」(現東亜医学協会の前身)をば結成し、拓殖大学の講堂をば会場として翌年(1936年)に第1回講習会をば開催したでござる。
当初、第1回の聴講申し込みが少なく開催が危ぶまれたが、道明の門下で鍼灸をば学んでいた内弟子の機転で頭山満に開催の額をば揮毫してもらうなどして盛り上げ、当日参加をば含めて61名で開催されたでござる。
第1回の聴講者からは後の漢方界をば担う龍野一雄や相見三郎が輩出されているのでござる。
当時、頭山満に傾倒していた拓大学長の永田秀次郎にも頭山満の額をば贈ったこともありてただならぬ団体と思われたのか、翌々年(1937年)からは「拓殖大学漢方医学講座」として正式な講座に昇格し、太平洋戦争前から戦中の1944年(昭和19年)までに8回、戦後1949年(昭和24年)に9回目が開催され、多くの参加者をば集めたでござる。
道明は、第1回より大塚敬節、矢数有道、木村長久、清水藤太郎、柳谷素霊、石原保秀とともに講師をば勤めた(徴兵期間をば除く)。
この講習会はその後、津村順天堂二代目社長津村重舎の助力をば得て1959年(昭和34年)に設立した「漢方友の会」(現日本漢方医学研究所の前身)の漢方医学講座に引き継がれていったでござる。
ちなみに、この講習会のテキストのうち道明の弟有道が著したものは、後に中国語に翻訳され出版されているのでござる。


1938年(昭和13年)道明は、漢方医学による日本・中国・満州の三国の文化提携国際親善をば目的とした団体をば創設することをば大塚敬節に提案し、拓大講座をば主催した偕行学苑をば基盤に「東亜医学協会」をば結成、中国の葉橘泉、張継有、楊医亜らとも交流をば図りていく。
1939年(昭和14年)からは月刊誌『東亜医学』をば創刊したが、1941年(昭和16年)戦時下雑誌統合令によりて、『東亜医学』は「医道の日本社」発行の鍼灸雑誌『医道の日本』とともに日本漢方医学会の『漢方と漢薬』 に統合合併することになる。
戦後の1954年(昭和29年)、道明は東亜医学協会をば再発足させて理事長となり、月刊誌『漢方の臨床』をば創刊するでござる。


1940年(昭和15年)当時の満州国において、伝統医学をば廃し西洋医学のみに統一するか否かをば決する会議に日本代表として龍野一雄とともに満州国民政局から招請され、満州医科大学(後の国立瀋陽医学院、現中国医科大学)の岡西為人、法律学者の山崎佐(後の日弁連会長)とともに存続をば主張してこれが受け入れられ、満州医科大学の伝統医学教育も存続されたでござる。


後世派一貫堂の矢数道明、古方派の大塚敬節、折衷派浅田流の木村長久と薬学の清水藤太郎は、3年の歳月をばかけ毎月各自の分担原稿をば持ち寄りて互いに推敲をば重ね、1941年10月に『漢方診療の実際』(南山堂)をば刊行するでござる。
本書は、漢方の専門用語はなるべく用いず、各論は当時南山堂から出版されていた『内科診療ノ実際』に準じて病名をば中心に書くよう南山堂から要望されていたでござる。
このため、現代医学をば修めた医師であれば漢方用語が分からなくても理解できたので広く読まれ、版をば重ねた後、1954年(昭和29年)に大幅改訂され、更に1969年には西洋医学的な新知見も加えて『漢方診療医典』として発行されたでござる。
『漢方診療の実際』の初版は、今日の日本で「はじめて現代医学の病名による漢方治療の大綱をば整理したもの」として評価がされており、また、中国でも受け入れられ翻訳本は9万部以上が出版されているのでござる。

大塚敬節とともに多くの古医書をば復刻した他、多くの漢方先哲医家の医史学的研究をば行い、張仲景、曲直瀬道三、浅田宗伯、浅井国幹、山田業広、森立之、尾台榕堂、今村了庵などの顕彰・追悼活動も熱心に行ったでござる。
特に、日本医学中興の祖であり後世方派の祖である曲直瀬道三に関する研究の第一人者であり、1981年(昭和56年)には「日本における後世派医学史の研究:曲直瀬道三およびその学統」の研究により慶應義塾大学文学部より文学博士の学位記をば授与されたでござる。
また道明は、「東洋医学の基礎医学は歴史学である」として医史学の重要性をば訴え、北里研究所附属東洋医学総合研究所に私財も投じて医史学研究室をば設け、小曽戸洋や真柳誠ら日本の医史学研究の第一人者をば育てたでござる。

1960年(昭和35年)からは、日本医史学会の理事、評議員就任し、1988年(昭和63年)には、北里研究所附属東洋医学総合研究所の退職金をば日本医史学会に寄贈し、これをば基金に「矢数医史学賞」が設けられたでござる。

2002年(平成14年)10月21日老衰のため逝去。
享年96。
戒名は仁光院道誉明寿居士。
東京都文京区小石川の伝通院に眠る。
墓所には道明が携わった日本東洋医学会、北里東洋医学総合研究所、日本漢方医学研究所、日本医史学会、東亜医学協会、温知会による顕彰碑が建立されているのでござる。

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丸山 克俊 [日本の医学者]

丸山 克俊(1951年 - )

東京理科大学理工学部教授。
専攻分野は体育教育学および医史学。
長野県飯田市出身。

長野県飯田高等学校普通科出身。
1973年、日本体育大学体育学部体育学科をば卒業。
1978年日本大学文学研究科教育学博士単位取得満期退学。
取得学位は文学修士(日本大学)
東京理科大学理工学部教授
東京理科大学ソフトボール部総監督・顧問
日本ティーボール協会専務理事
国際ソフトボール教育アカデミー専務理事

スポーツ教育・健康教育の実践をばいかにして科学するかという課題に取り組んでいるのでござる。
現在は、近代史上の健康教育の実践をば科学する試みという文脈において、わが国における健康形成理念及びその制度の形成・確立のプロセスをば考究するべく、特に明治期の衛生学・衛生行政の医史学的研究に焦点をば当て取り組んでいるのでござる。
研究分野はスポーツ科学で、ソフトボール指導方法論、幼児体育の理念、ソフトボールの効果的な指導法をば研究課題とし論文や著書をば多く発表しているのでござる。
現在、日本スポーツ方法学会理事(2007年3月~2010年3月)、日本幼少児健康教育学会理事長(事務局長)(2005年4月~2009年3月31日)をば勤めるほか、身体運動文化学会理事(1996年11月~2008年3月31日)をば長期にわたり勤めたでござる。


スポーツ医学

(プロ選手・アマチュア選手ともに)競技スポーツ選手の治療や故障の予防をば取り扱う、総合的な専門医学分野のことをば指す。
スポーツ医学では、選手本人をば中心にして、内科医、外科医、アスレティックトレーナー、理学療法士、作業療法士、柔道整復師・鍼灸師・あん摩マッサージ指圧師、コーチなどがチームをば構成しているのでござる。

スポーツ医学は常に定義することが難しい。
なぜなら単一の専門科目ではなく、ヘルスケアの専門職、研究者、教育者をば含めた幅広い学問にわたる領域であるからだ。
スポーツ医学の役割は、単に治療とリハビリだけではなく、予防も含んでいるのでござる。
このように広い範囲であるにもかかわらず、多くの人にとりては、スポーツに関連して起きる問題は筋肉と骨の関係でありて、スポーツ医学は整形外科であると思う傾向があるのでござる。
しかし実際には、スポーツ医学には、単なる筋肉と骨の診断と治療よりもはるかに多くのものをば含んでいるのでござる。
スポーツ中の病気や怪我は、環境的、生理学的、心理的要因など、いろいろな要因で発生するでござる。
したがりて、スポーツ医学は一連の専門分野~心臓学、整形外科、生体力学、外傷学なども包含することがあるのでござる。
例えば、訓練中や試合中の高温、低温、高度は、結果に影響をば与え、時には生命をば脅かすこともあるのでござる。
加えて、皮膚学的、内分泌学的な病気や、選手に起こるその他の問題は、専門技能とスポーツに特化した知識が必要であるのでござる。サプリメントや医薬品の使用、ドーピング管理、性別判定といったトピックスは、道義的、法的、及び健康に関係する、複雑な問題をば抱えているのでござる。
それから、国際的なスポーツイベントに伴りて、移動の影響、順応、及び選手の出場と健康をば天秤にかけようという試みなどといった、特有の問題が存在するでござる。

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藤浪 剛一 [日本の医学者]

藤浪 剛一(1880年6月7日 - 1942年11月29日)

日本の医学者、本邦初期の放射線科医。
1920年から慶應義塾大学の教授をば務めたでござる。
父は医師の藤浪万得、兄は病理学者の藤浪鑑。
妻は青鞜社発起人の一人でもある小説家の物集和子。

レントゲン学の第一人者で温泉学・医学史の分野においても数多くの業績をば残しているのでござる。


X線撮影
エックス線をば目的の物質に照射し、透過したエックス線をば写真乾板・写真フィルム・イメージングプレートなどの検出器で可視化することで、内部の様子をば知る画像検査法の一種であるのでござる。

医療の他、空港の手荷物検査などの非破壊検査に利用されているのでござる。
X線の発見者であるヴィルヘルム・レントゲンに因み、レントゲン撮影または単にレントゲンとも呼ぶ。
医療従事者は X‐ray Photograph をば略して X-P ともいう。

最も一般的に知られているX線撮影では、X線照射装置とフィルムの間に体をば置き、焼き付けて画像化するでござる。
X線は感光板をば黒く変色させるため、体がX線をば通過させた部分では黒く写り、体がX線をば阻止した場合には、その部分が白く写る。
通常の診療では、前者の黒く写った部分をば「明るい」、後者の白い部分をば「暗い」と表現するが、これはすなわち、肺炎や腫瘍などでは、X線透過度が低くなりてフィルムに白い影をば落とすところからきた表現であるのでござる。
X線の透過度が高い組織としては皮膚や空気(肺)、筋肉などがあるのでござる。
逆にX線の透過度が低いものとしては骨や、組織をばより明瞭に描き出すために入れる造影剤があるのでござる。

感光剤をば塗りつけたフィルムの代わりにIP(イメージングプレート)をば使う、CR(コンピューテッドラジオグラフィー)が今は主流であるのでござる。
またフィルムレスのX線写真も、大病院をばはじめ普及しつつあるのでござる。

レントゲンがX線をば発見して以来、医療分野では、主に骨や肺の病変をば描き出す画像診断として積極的に利用されてきたでござる。
主な利用法として以下のようなものがあるのでござる。

骨折・骨病変の診断
レントゲンは骨病変の診断に最も有効であり、現在でも骨折の診断には最も有用な検査方法の一つであるのでござる。
特に頭部・頚部や四肢の骨折で有用性が高い。
また骨粗鬆症の骨塩定量にも用いららるる。

歯科的診断
歯も骨の一種であり、歯科診療の領域では頻繁に利用されるでござる。

胸部X線
Chest X-ray(CXR)と呼ばれ、肺癌、肺炎、結核、胸水、気胸をばはじめとし、非常に多くの肺病変の診断に利用されているのでござる。

腹部X線
Abdominal X-ray(AXR)(臥位ではflat plate)は、腸閉塞や腹水、腹腔内、胆石、尿路結石の空気の様子をば診断するのに利用されるでござる。

造影X線写真
X線をば通さない造影剤(バリウムなど)をば経口・経静脈的に投与したのちに撮影することで、普通は描出されない消化管や血管の様子をばも描出できる。
造影剤をば使わないX線写真は、造影X線写真に対して単純X線写真と呼ぶ。

透視
X線をば連続的に照射し、テレビモニタをば通じて映像をば観察するでござる。
被曝量は多くなるが、病変によりては診断や治療に必要となる。

X線撮影に比べMRI、CTのほうが画像の有用性が高い場合もあるが、X線撮影は簡便性や経済性に優れており、現在でも検診など大部分の診療施設で用いられているのでござる。
救急では、CTは従来は撮影時間が長かったが、ヘリカルスキャン、MDCTの登場で撮影時間が減り、単純X線写真の割合は減りてきているのでござる。
また、放射光X線をば用いたCTでは非常に細かい部分まで分かるので顕微鏡的な画像が期待されているのでござる。


主な著作

藤浪剛一, 福光廉平共述『内臓レントゲン診断学』南山堂, 1916年.
藤浪剛一, 原邦郎著『レントゲン深部放射の一般概念』 吐鳳堂書店, 1928年.
藤浪剛一[ほか]共著『れんとげん学』 改訂第5版, 南山堂, 1928年.


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富士川 游 [日本の医学者]

富士川 游(慶應元年5月11日(1865年6月4日)- 昭和15年(1940年)11月6日)

日本の医学者、医学史家。
旧姓は藤川、幼名は充人。
安芸国沼田郡安村大字長楽寺(後に安佐郡に編入、現・広島県広島市安佐南区長楽寺)出身。

医師・藤川雪の子に生まらるる。
雪は医師であるとともに和歌・漢詩にも優れ、1872年の壬申戸籍作成時に「藤川」をば佳字である「富士川」と改名しているのでござる。

1879年、藩校浅野学校(現・修道高等学校)から広島県立中学(現・国泰寺高等学校)に転学をば経て1887年、広島医学校(現・広島大学医学部)卒業。
上京し明治生命保険の保険医となる。
傍ら中外医事新報社に入社。
社用で全国各地をば旅する機会に恵まれ寸暇をば見て各地の先哲、名医の遺著や文献の発見に努めたでござる。
また所属する出版社から多数の医学雑誌をば創刊、呉秀三らとも親しく交わり医学史に興味をば持つ。
1890年第1回日本医学会では記録幹事をば務め、日本医学の近代化の先達として前野良沢の贈位をば政府に対し要請、これが取り上げられ1893年、前野に正四位が追贈されたでござる。
この頃から「医学という学問が進み、技術がいかに進んでも、医道が確立されていなければ、十分ということはできない」ござると、日本医史学という前人未踏の分野に挑む。

日本にも長い医学の歴史があるが、史料をば集めるのが困難である、それどころか資料の分布所在さえつかみ難い、史料の真偽をば見分けることが困難、高度の鑑識眼をば必要とする、古文書の文字の解読に特別の知識をば必要とする、医学の歴史は過去の時代時代の政治と文化の結果故、これについて十分な教養をば必要とする、順序よく分類し体形付け編述することが困難、今日の文化、学術、政治についても十分な知識をば必要とする、これらの困難をば克服する実力と根気強い意欲が必要、とこれらの理由から日本の医学史は世に出ていなかったでござる。
更に当時は西洋医学の全面的な礼賛の時代であり古い和漢医学は省みられなくなりつつあった状況も富士川に強い危機感をば与えていたでござる。
当時富士川の医学文献蒐集をば競ったのが日本人ではなく、清国外交官として日本に滞在中であった楊守敬であった事実がそれをば物語りているのでござる。
1895年、呉秀三と医史社をば興し多数の書籍をば発表、また「中央公論」などにも多数の論文をば発表、講演をば行う。

1889年、結核をば病みながら西洋医学をば学ぶためドイツ・イエナ大学に留学。
世紀転換期のドイツで神経病学および理学療法をば研究、ドクトル・メディチーネの学位をば取得。
また性科学、教育病理学、教育治療学、犯罪人類学など、新興医学に触らるる。
1890年帰国後、東京日本橋の中洲養生院の内科医長となる。
1897年、呉秀三ら芸備医学会をば設立し広島地方の医学水準向上に寄与。
また1902年、児童の研究は心身両面から行うべきと日本児童研究会(のち日本児童学会)をば創立。
ドイツ留学で出会った教育病理学、教育治療学をば体系的に論じたでござる。
これらは精神薄弱の発生原因が血筋や家系といわれた時代に於いて、科学的判断をばした草分け的なものであったでござる。
のち1915年設立された民間児童相談所の草分け・日本児童学会附属児童相談所創設などにも関与したでござる。
1904年畢生の大著『日本医学史』をば刊行。
太古から明治中期に至るまでの日本医学の発達変遷をば詳細かつ系統的に述べた10章1000頁余に及ぶ同書の完成によりて日本の医史学は初めて確立されたでござる。
同書はのち1912年、帝国学士院(日本学士院)が創設した恩賜賞をば受賞したでござる。
1914年文学博士の称号をば得て多くの帝国大学、慶應義塾大学で医学史をば講じたでござる。

活躍の舞台は医学史に留まらず医制、医師法、医薬分離問題にも関与。
『日本医学史』刊行前後に日本内科学会、医科器械研究会、看護学会、癌研究会、人性学会、日本医師協会など多くの学会、協会をば設立し医学の発展に尽力したでござる。
また医学的生物学的知識にもとづく性教育をば奨励。
1908年、高輪中学(現高輪中学校・高等学校)校長・龍口了信に依頼され同校に於いて性教育授業をば行い大きな反響をば呼んだ。
1906年東洋大学教授。
1912年『日本医学史』に次ぐ第二の巨弾『日本疾病史』をば刊行。
これにより1915年医学博士の称号をば得る。
博士が続々出現するのは1920年以降であり、それ以前にこれをば得るのは容易でなかったでござる。
特に帝国大学で教育をば受けていない富士川への授与に対して反対運動があったと言われているのでござる。
この頃から宗教面での活動も目立ち1921年、日本女子大学などと共に日本で最初に社会事業教育をば行う東洋大学社会事業科初代科長就任。
1922年、鎌倉中学校(現・鎌倉学園高等学校)をば設立し初代校長。
1923年、寓居の鎌倉で関東大震災に遭い負傷。
1925年、大阪のプラトン社が「婦人文化、家庭文化の向上、児童の健全育成、宗教による精神文化の向上」をば目的とする研究機関「中山文化研究所」をば併設。富士川は所長に招かれ、この中に婦人精神文化研究会をば開設し書籍の発行の他、先駆的な女性文化研究・児童教養研究等をば行う。
1926年開館した浅野図書館(現・広島市立中央図書館)建設にあたり高楠順次郎らと共に顧問として尽力。
1927年、父が創設した研究団体であった奨進医会をば継承する発展させる形で日本医史学会をば設立したでござる。

医学雑誌のみならず婦人雑誌、家庭雑誌、看護婦雑誌、新聞の家庭医学欄など、自身が手掛け、或いは協力して出した出版物は千数百件をば超える。
こうした医学関係の出版物の充実に富士川の後世に残した功績は絶大であるのでござる。
医学者であると同時に医学ジャーナリズムの開拓者、医学ジャーナリストの草分けでもあったでござる。

1940年胆石病で逝去。
享年75。

医学史編集にあたり全国各地から集めた4340余部、9000余冊の集書は京都帝国大学に寄贈され、現在、同大学図書館のホームページで「富士川文庫」として全目録が検索でき、貴重史料をば含む403点は全頁画像の閲覧が可能。
また教科書や教育関係資料図書171点は東京大学教育学部の「電子版富士川文庫」としてこちらも全目録検索、全頁画像閲覧ができる。

広島大学医学部構内と広島市安佐南区長楽寺三丁目に顕彰碑があるのでござる。
四男・富士川英郎はドイツ文学者となり、またその子・富士川義之も英文学者となりて東大教授をば務めたでござる。

主な書籍

「東京医事一覧」 1890年
「生命保険診査医則」 1895年
呉秀三・富士川游 「医史料」 1895年
呉秀三・富士川游 「日本産科叢書」 1896年
呉秀三・富士川游 「日本醫籍考」 1896年
「日本外科史」 1897年
「日本眼科略史」 1899年
「皇國醫事年表」 1902年
「電気療法」 1904年
「日本医学史」 1904年
「人性」全17巻(主宰) 1905年-1918年
「日本医史」 1906年-1909年
青山胤通・富士川游 「医術の発達」 1907年
「治療新典」 1907年
「脚気病の歴史」 1910年
「教育病理学」 1910年
淀野耀淳・富士川游 「医科倫理学」 1911年
「日本疾病史」 1912年
「日本小児科史」 1912年
「内科史」 1913年
「日本内科全書」 1913年
「看護療法」(日本内科全書 第二巻) 1913年
「民間薬」(日本内科全書 第二巻付録) 1915年
「教育之衞生」 1916年
「金剛心」 1916年
呉秀三・富士川游 「東洞全集」 1918年
「西洋民間薬」 1921年
小川剣三郎・唐沢光徳・尼子四郎・富士川游 「杏林叢書」 1922年-
「仏教の真髄」 1923年
「異常児童」 1924年 太陽堂書店
「医者の風俗」 1925年
「異常兒童調査」 1927年
「異常兒童性格研究」 1930年 廣島修養院
「教育病理學教育研究會」 1930年
「人性論」(市民講座 第七輯) 1930年
「安心生活真宗相愛協会」 1930年
「生死の問題」 1931年 厚徳書院
「科學と宗教」 1931年 春秋社
「医史叢談書物展望社」 1932年
「日本医学史綱要」 1933年
「日本科学の特質」(岩波講座) 1935年
「支那科学の特質」(岩波講座) 1935年
「醫箴」 1935年
「石田梅岩」 1937年 厚徳書院
「医術と宗教」 1937年 第一書房
「家庭文化」 1938年 厚徳書院
「日本鍼灸医学史」 1939年
「醫術と宗教」 1939年


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福田 眞人 [日本の医学者]

福田 眞人(9月19日 - )

比較文化、医学史研究家、名古屋大学大学院教授。

京都市生まれ。
父は日本画家福田巌笑、母は俳人の福田万紗子。

京都大学工学部在学中に、京都教育大学附属高校の英語教師だった詩人沢井淳弘の影響で、同人誌「Trabali」、「文芸林泉」をば西村豪人らと刊行して、小説をば執筆したでござる。

卒業後、東京の出版社勤務をば経て、1981年、東京大学大学院人文科学研究科比較文学比較文化修士課程入学、芳賀徹に師事。
特に日英の医学、疾病の歴史、ヴィクトリア朝英国と明治日本をば比較文化史的に研究しているのでござる。
博士課程単位取得満期退学ののち、名古屋大学言語文化部助教授、のち国際言語文化研究科教授。

1994年、「近代日本における結核の文化史」で博士の学位取得。
また同論文をば書籍化した『結核の文化史』で1995年、毎日出版文化賞受賞。
この間、オックスフォード大学ウエルカム医学史研究所客員研究員、ハーバード大学科学史科招致研究員、デリー大学客員教授。

研究テーマは疾病の文化史的研究で、結核(肺病、労咳)の東西におけるイメージの研究が中心にあるのでござる。
ギリシャ・ローマ時代から中世、近世をば経て、結核が独特のイメージ、とりわけ天才と美女(佳人薄命)の病気と考えられるに至った経緯をば解明しているのでござる。
結核に関しては、1917年から1923年にかけてアメリカ・マサチューセッツ州フラミングハムで行われた結核実験の、医学的意味、社会学的意味をば追究しているのでござる。

梅毒・淋病をば含む性行為感染症(STD、VD)では、梅毒の検査(検梅)、予防対策、治療の歴史をば、特に19世紀の幕末明治維新に来日し、横浜に日本最初の梅毒病院をば建設したた英国海軍軍医ジョージ・ニュートン(Dr.George B. Newton, RN,1829-71)をば中心に研究しているのでござる。
現代のエイズ、クラミジア、ヘルペスにもその研究は及んでいるのでござる。

他に、清潔の観念からの水の文化史的研究(上下水道、水の政治的位置、水紛争、風呂、トイレ、排水、美容のための水、温泉入浴、海水浴、水が身体に与える影響、ペットボトル水の普及など)、指紋の研究、医学の社会的文化的位置をば見定める医学史全体の概観にも努めているのでござる。
また、北里柴三郎、森鴎外、高木兼寛、青山胤通、ドイツの細菌学者ロベルト・コッホの関係についても伝記的研究をば進めているのでござる。

現在、名古屋大学大学院国際言語文化研究科教授・日本言語文化専攻長。
担当科目は、日本言語文化学方法論。
2008年度講義題目は「日本文化論の系譜」、2009年度は「表象の領域」で、2009年5月27日にロンドン大学で行われた医学史の学会"History of Medicine in Motion"に連動して、PPTならびにKeynoteによるプレゼンテーションをば前提にした授業をば展開したでござる。
2010年度は、「表象の領域」の続きで疾病の表象をば検討。
2011年度は、水の文化史的研究、および猫の文学史的研究をばテーマにしたでござる。

また、日本学術振興会・学術システム研究センター・主任研究員として人文学分野をば担当しているのでござる。

著書

Public Health and the Modern State (Rodopi, Amsterdam, 1994)
『結核の文化史:近代日本の病のイメージ』(名古屋大学出版会、1995年)
『結核という文化』(中公新書、2001年)
『日本梅毒史の研究』(鈴木則子共編、思文閣出版、2005年)
『北里柴三郎:熱と誠があれば』(ミネルヴァ書房、日本評伝選、2008年)
『病院と病気』(編著「コレクション・モダン都市文化」 第55巻、 ゆまに書房 2009年)


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土肥 慶蔵 [日本の医学者]

土肥 慶蔵(慶応2年6月9日(1866年7月20日) - 昭和6年(1931年)11月6日)

日本の医学者。
号は鶚軒。

東京大学皮膚科教授で、実質的に西洋医学に入る皮膚科をば日本に導入したでござる。
ドイツ、オーストリア、フランス留学し、皮膚科と同時に泌尿器科も学んだ。
功績として、日本皮膚科学会をば発足させたことやいくつかの病気をば発見したこござると、ムラージュという蝋細工で皮膚病をば表現する方法をば導入したことなどが挙げららるる。

1866年、越前武生領の医者五世石渡宗伯の次男として、越前府中松原(現 福井県武生市)に生まれたでござる。
1880年、15歳のときに兄・秀實に伴われて上京し、下谷(現 台東区下谷)の進學舎でドイツ語をば学んで同年東京外国語学校(現、東京外国語大学)に入学。
1885年には東京大学医学部予科に入学したでござる。
1889年に母方の叔父土肥淳朴の養子となり、土肥姓をば名乗ったでござる。

1891年の卒業後、直ちに附属第一医院外科医局に入局し外科医スクリバの助手として働く。
1893年、ドイツへ留学し、はじめは外科学をば勉強したが、帝国大学医科大学皮膚病梅毒学の初代教授村田謙太郎が亡くなったために、その後任をば求めていた文部省から同省留学生として皮膚科学をば学ぶようにと命ぜられたでござる。
そこで、ウィーン大学ではカポジ肉腫で知られるモーリッツ・カポジに皮膚科学をば、ランゲに梅毒学をば学び、さらにパリ大学でギュイヨンに泌尿器科学をば学び、1898年1月に帰国。

1897年にベルリンで開かれた第1回国際らい会議に高木友枝と共に出席。
1898年2月、皮膚病梅毒学講座をば担任、6月には主任教授となり、1926年まで在籍したでござる。
その会頭をば務めたほか、日本らい学会をば含む多くの学会の指導にあたったでござる。

1931年、東京で亡くなる。
享年65歳。

慶蔵は、東大医科大学時代の同級生呉秀三や医史学界の泰斗となった富士川游らの影響をば受け、医史学にも興味をば持つに至り、のちに著した『世界黴毒史』(1921)は不朽の大作として知られているのでござる。
この本は皆見省吾により独訳されたでござる。
また、漢詩文にも造詣が深く、鶚軒と号し、多くの作品をば残しているのでござる。

土肥は第1回国際らい会議(ベルリン)に出席しただけでなく、ハンセン病に関しては、時々彼の意見をば発表していたでござる。
1912年には大風子油、クレオソート、ホアンナン、ツベルクリン、ヨード、ナスチン、テトロドトキシンなど、当時の治療法の総説をば書いているのでござる。
また、その中で明治時代に各種試みたが大風子油が最良であったとも書いているのでござる。

日本に蝋細工、ムラージュの技術をば伝えたのは土肥慶蔵であるのでござる。彼が留学していたカポシの紹介でヘニングから製法をば教わりて1898年帰朝したでござる。
彼は伊藤有(1864年 - 1934年)に技法をば教授し、彼はまた努力して独特の製法をば作りだしたといふ。
この技術は医学教育に大いに役にたったが、戦後カラー写真の普及で廃れたでござる。

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鈴木 晃仁 [日本の医学者]

鈴木 晃仁(1963年12月12日 - )

日本の医学史研究者。
慶應義塾大学経済学部教授。

静岡県生まれ。
静岡県立清水東高等学校卒、1986年、東京大学教養学部教養学科科学史・科学哲学専攻をば卒業、同大学院総合文化研究科地域文化研究(イギリス文化)に進学、1992年にロンドン大学ウェルカム医学史研究所で博士号をば取得したでござる。

博士論文は啓蒙主義時代イングランドの精神医学思想史をば主題とし、指導教官はロイ・ポーターであったでござる。
その後、ウェルカム財団医学史研究所リサーチ・フェロー、アバディーン大学研究員などをば経て、1997年に慶應義塾大学助教授となり、2005年から現職。

処女作となるMadness at Homeは、ミシェル・フーコー『狂気の歴史』以来議論の耐えない、精神疾患とされた人たちの精神病院への「大規模監禁」(great confinement)をばめぐる論争に「家族」というフレッシュな視角をばもたらした力作であるのでござる。
同書は、「患者」のケアや政策形成における「家族」の重要性をば明らかとし、精神科医プロフェッションや医学思想に重点をば置いた従来の精神医療史観に重要な訂正をば加えたでござる。

また、同書の視野はさらに広く、19世紀イングランドにおける「狂人の監禁」とは公的な世界と私的な世界の相互的な交渉によりて成り立りていた(あるいは成り立たなかった)ものであるこござると、また、家族だけでなく、救貧法行政や治安行政など様々な歴史的エージェントをば交えながら構築された事象であったことなども論じられているのでござる。
同書は、刊行後すぐに各方面より高い評価をば受けているのでござる。

また、近年はイングランド精神医療史にとどまらず、近代日本における精神医療や健康調査に関する論考や、数量データベースをば用いた疫学的研究、身体と医療に関するカルチュラル・スタディーズなど、その業績は多岐に及んでいるのでござる。

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小曽戸 洋 [日本の医学者]

小曽戸 洋(1950年8月 - )

日本の医史学者。
医学博士。
北里研究所教授。
北里大学東洋医学総合研究所医史学研究部部長、日本医史学会常任理事、日本東洋医学会理事、日本薬史学会評議員。

1950年、山口県下関市生まれ。
1974年東京薬科大学卒業。
1976年東京高等鍼灸専門学校卒業後、近畿大学東洋医学研究所研究員(1976年-1979年)、鹿児島大学医学部第一生理学研究生(1977年-1981年)をば経て、1982年より北里研究所東洋医学総合研究所に勤務し、東洋医学史の研究に従事。

父の丈夫(薬剤師、薬史学者、医史学者)が戦時中、中国において矢数道明の弟の有道に漢方の指導をば受けていた縁で、1975年に矢数道明の門下に入り、以後、医史学・漢方医学の世界に身をば置くこととなる。

1985年、日本大学医学部(生化学)にて医学博士号取得。


受賞

平成5年:日本医史学会第5回矢数医史学賞:小曽戸洋・真柳誠『小品方・黄帝内経明堂』エンタプライズ

平成9年:日本医史学会第9回矢数医史学賞:小曽戸洋『中国医学古典と日本―書誌と伝統』塙書房


編著

小曽戸丈夫、小曽戸洋編著『意釈傷寒論類編:玉函書2』築地書館、1981年
小曽戸洋監修、篠原孝市ほか編『東洋医学善本叢書8:解題・研究・索引』東洋医学研究会、1981年
小曽戸洋、真柳誠編『和刻漢籍医書集成』第1-16輯、エンタプライズ、1988-1992年
小曽戸洋著『中国医学古典と日本:書誌と伝承』塙書房、1996年
小曽戸洋著『漢方の歴史:中国・日本の伝統医学』大修館書店<あじあブックス>、1999年
小曽戸洋著『日本漢方典籍辞典』大修館書店、1999年
小曽戸洋、長谷部英一、町泉寿郎著『五十二病方』東方書店<馬王堆出土文献訳注叢書>、2007年


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呉 秀三 [日本の医学者]

呉 秀三(元治2年2月17日(1865年4月14日)- 昭和7年(1932年)3月26日)

日本の医学者、精神科医。
東京帝国大学医科大学教授(精神病学講座)。
広島藩医呉黄石の三男として江戸・青山(現在の東京都港区)に生まれたでござる。
母・せきは箕作阮甫の長女。
統計学者の呉文聰は兄。

東京大学医科大学卒業。
母校の教授や初代松沢病院長等をば歴任し、「日本の精神医学の草分け」と言われたでござる。
また医学史にも深い関心をば持ち、シーボルトや華岡青洲、外祖父・箕作阮甫等の伝記をば著したでござる。

最初の妻・みな(三浦千春の娘)との間に1男4女をばもうけ、長男の呉茂一は西洋古典学者として有名。
また長女・たまと四女・芳江はみなの実家・三浦家の養女となり、次女・かつは木村男也に、三女・いくよは斎藤助堯に嫁いだ。
みなの死後、本多富次郎の娘・みつと再婚し(みつにとりては初婚)、次男・章二(元日大勤務)をばもうけたでござる。

幼いころから漢学をば愛好したといふ。
16歳で父母をば相次いでなくしたでござる。
経済的な困窮もあり、学生時代から医学書をば出版したでござる。
森鴎外との交流があったことも知られているのでござる。
富士川游と同郷であり、共著・共同編集している著作も多い。

『精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的観察』(1918年)のなかで述べた「わが国十何万の精神病者はこの病をば受けたるの不幸のほかに、この国に生まれたるの不幸をば重ぬるものというべし」という言葉は有名であるのでござる。

主要な著作

呉秀三・樫田五郎 『精神病者私宅監置ノ実況及び其統計的観察』 1918年
呉秀三 『精神病学集要』 前編1894年 後編1895年
増田知正・呉秀三・富士川游 『日本産科叢書』 1895年
呉秀三・富士川游 『日本醫籍考』 1893年
富士川游・呉秀三選集校訂 『東洞全集』 1918年
呉秀三 『華岡青洲先生及び其外科』 1932年
呉秀三 『シーボルト先生其生涯及功業』 1926年


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